和帝(わてい)は後漢の第4代皇帝。
操られた皇帝 [編集]
章帝の四子として生まれる。生母の梁貴人は宮廷内での争いの中で章帝の皇后・竇氏によって殺される。88年(章和2年)に9歳で即位。幼少のため即位当初は竇太后が垂簾政治を行い、皇太后の兄である竇憲らが外戚として政権を握ることになる。竇憲は匈奴討伐にも戦功を上げて、大将軍となった。
外戚の排除と宦官の台頭 [編集]
和帝は成長するに及んで竇憲に対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲も和帝の気持ちを察し、これを害そうと画策し始めた。その動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。和帝が密謀の相談役に選んだのは宦官の鄭衆(ていしゅう)であった。彼を用いたのは、宦官ゆえに密謀を行うに都合がよいことと、鄭衆自身が皇帝に対する忠誠心の厚い、明晰で行動力のある人物だったからである。92年(永元4年)、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。これにより和帝は竇一族から政治の実権を取り戻すことに成功した。鄭衆はこの功績により鄲郷侯に封じられ、大長秋の官を授けられた。和帝はその後も鄭衆を信任し続けたため、これ以後宦官が政治に深く関わるようになった。鄭衆自身は政治的には確かに有能で、しかも私心のない人物であったから、彼が政治に参与していた間は問題が表面化することはなかったが、それ以降の宦官の多くは、政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、彼らの跳梁により政治の腐敗が深刻化した。
また、和帝以後も後漢では幼帝が即位し続け、外戚勢力と宦官勢力との間で激しい争いが続くことになる。このようなことから「後漢は和帝の時から衰退を始めた」とする意見が多い。
領土拡大と紙の発明 [編集]
外征面は後漢で最も栄え、西域の50余国が後漢に従った。これは班超個人の力量に拠るところが大きく、班超の死後は後漢の西域における影響力は急速に衰えた。また文化的には、班固・班昭兄妹により『漢書』が完成し(92年(永元4年)、蔡倫によって製紙法が改良された(105年(永元17年)ことがあげられる。
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