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ランデーチョはすぐに都に上って

無一文となったランデーチョはすぐに都に上って秀吉に直接抗議しようと決めたが、長宗我部元親の許可がなかなか得られず、12月になってようやく都に上った。しかし、都では交渉の仲介を頼もうとしたフランシスコ会などスペイン系の宣教師たちが捕らえられていた。彼ら宣教師はやがて処刑されることになる。

当時日本にいた宣教師ルイス・フロイスもこの事件の顛末を述べているが、そこでは「漂着した船舶は、その土地の領主の所有に帰するという古来の習慣が日本にあったため」積荷が没収されたと述べている[1]。歴史書でもしばしば「「漂着した船の積み荷には、その土地へ所有権が移る」のがこの時代の海
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事法(廻船式目)であったため」というような記述が見られるが、そのような言い方は誤りである(廻船式目とは鎌倉時代に当時の海上の慣習を文章化した上で鎌倉幕府の裁可を得たものだが、後に長宗我部元親がこれを発見し、豊臣秀吉の「海路諸法度」(1592年)の元になった)。

廻船式目では第一条で難破船の積荷の扱いについて述べているが、難破船に生存者がいない場合はその資産を漂着地の神社仏閣の造営費にあててもかまわないと述べており、「海路諸法度」では漂着船がでて積荷を入手したものがいても、船主から請求があった場合、ただちに積荷を返さなければならないと述べている。つまりサン=フェリペ号の場合、廻船式目でも海路諸法度でも積荷の権利はスペイン人船員たちに保障されているのである。

その後、船員たちの度重なる申し出を受けて、サン=フェリペ号の修繕が許され、一同は1597年4月に浦戸を出航し、5月にマニラに到着した。マニラではスペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船長のランデーチョらは証人として喚問された。その後、1597年9月にスペイン使節としてマニラからドン・ルイス・ナバレテらが秀吉の元へ送られ、サン=フェリペ号の積荷の返還と二十六聖人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、果たせなかった

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2009年04月28日 11:42に投稿されたエントリーのページです。

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